巷では「見える化」がとても便利に扱われているように思います。とあるCMでは「見えないものを見える化する!」とか言ってしまっているくらいです。
少し話は逸れますが可視化と何が違うのでしょうか??(ビジネスシーンにおいては違うものという考えもありますが、しっかりと把握されているかは怪しく、キャッチーなワードという意味で使われているように思えます)これは「簡単なことはいいこと?」で触れたいと思います。https://atoput.com/easy/
見える化によって本当に見えないものが見えるようになっているのでしょうか?
見える化とは
見える化とは何でしょう?当然便利なものもたくさんあります。時間というものが数値によって見えるようにされているのもそうです。この見える化がなければ世の中不便ですよね。一方でそれと同時に考えるべきことは「見える化で表現できるものが全てなのか?」ということです。
例えば食品開発の仕事において味を決める際に「見える化」によって 酸味・苦味・甘味・塩味・旨味と5つの指標にすることができます。味覚の数値化という技術は着実に進歩しています。味覚の数値化を研究されている方は場合によっては数値化で全てを語ることを目指しているかもしれません。一方で食品大手の5社だけをみても最終判断はその数値にとらわれることなく人の味覚に頼った官能評価というものが行われ、数値化されたものだけの判断では不十分と考えていることがわかります。
冒頭に書いた「とあるCM」は昨今のテレワークの増加に対し、業務管理を見える化するということのようですが、テレワーク中の勤務時間が見える化されると会社の業績につながるのかどうかは考えるべきことで、「エンジニアに哲学は必要?」でも書いた部下の評価を点数つけで行うのと似たものを感じます。
また別の某社CMで、離れて暮らす年配の親をスマホなどでデータとして確認できるサービスが宣伝されていました。私はパッと見たときに、ペットみたいな扱いで違和感を感じたのと、これによって人対人としてのコミュニケーションが失われないのかと思ってしまいました。(実際に私はそういった状況ではないので、当事者となったときには大変助かるのだろうとも思いますし、緊急時の連絡とかもありメリットが大きいとも思います。)
見えないものの価値
「見えるもの、見えないもの」についてアナロジー的な捉え方をすると様々な場面で議論される内容と通ずるものがあると思います。 例えば「侘び寂び」における「表面的な華やかさと内面的な美しさ」、「カトリックとプロテスタント」の偶像崇拝の議論における「神を目に見えるわかりやすい対象をもって伝えるのか」「神を見えないものとして扱うのか」という議論、「西洋医学、東洋医学」の「科学的に理解できることが正義か」「経験的に答えのでることが正義か」などです。
もう一つ「見えるものが全てか?」という意味では老子、荘子の「無用の用」(一見すると無駄に思えるものが実は役割を持っている)という考え方もあります。食品開発の例で言えば「味覚の数値化ができれば曖昧な人間の判断は無駄なのでは?」に対し「人間の判断も重要な役割がある」ということです。無用の用は私が大切にする考え方なので別の記事で書きたいと思います。
バランスが大切
見える化自体を完全否定している訳ではありません。見える化によって難しい事象を効率的に処理したり、相手にわかりやすく伝わるというメリットはあります。気をつけるのは「見える化によって強調された」ということを意識することと、強調された裏に目立たなくなったものは何か?そしてそれがもたらすデメリット・対処は何かを考えることなのかと思います。特に見えるものは自然と価値が高まりやすいです。人によっては数値などを見た上でも絶対的な感覚評価ができるかもしれませんが私は難しいと思います。 「見えるものは自然と価値が高められがち」これを認識しつつ見える化をバランスよく使うことが大切だと思います。
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